おいらは無学だから記号論なんかよく分からない。で、映画(ショーン・コネリー)との相違点のみメモしておく:
- バスカヴィルのウィリアムがアドソに与えた「眼鏡」。映画では単に貰ったとだけ言っていたような。あんな大切なものをアドソなんかにやってしまって、ウィリアムはその後の研究生活を放棄したのかと思っていたら、小説ではちゃんと眼鏡は二つあったことになっている。当たり前だよね。あれなしにはウィリアムは本を読むことが出来ないのだから、一つしかなかったら(自分はもう本を読まないと決心でもしない限り)やるわけはない。これ結構重要な意味の取り違えとなってしまう。
- アドソが関係を持った「娘」。映画では最後のシーンに現れる。映画では火炙りにはならなかったのだ。でも小説では火炙りにされる。小説通りでは映画は売れないと判断したのだろうが、これも大きな読み違えを引き起こす書き換え。娘と関係を持ったことでアドソは罪を犯す。その罪を娘(平信徒)が引きうけて火刑台で死ぬ。キリスト的な行為でさえあるのだ。平信徒と聖職者の立場の違い(ウィリアムによれば平信徒は石のようにエリート聖職者に利用される存在)を雄弁に物語るものであっただけに残念。
- 小説の最初にある年老いたアドソの長い記述を映画でははっしょっている(当たり前か)。若くて純真な青年も歳をとると頭が固くなるという実例として面白かったのに。
でも映画もとてもヴィジュアルで面白かった。良くできた映画化じゃないかと思う。「思いこみの強い輩」はいつの時代でもやっかいな存在だと言うことがよく分かる。「本」を巡る殺人事件なんて、神保町を徘徊する古書マニアの間にでも起こりそうな事件だけれど、当時の確執はあくまでも「本の中身」で生じたもの。稀覯本フェチとは全く性格が異なる。
2 件のコメント:
映画の最後のシーンで現れた「娘」。あれは火刑に処せられた後の「娘」の復活かも知れない。なら娘はキリストだったということになる。映画の方が奥が深いのか?
今頃のコメントで恐縮ですが:
1 私もあの娘は死んだと思っていたのですが、よく考えたら火刑の場面はなく、そのうちに修道院は大火事になってしまった訳ですね。もしかしたらどさくさで逃亡したかも・・・
2 秘密の部屋への鍵が、寺男サルバトーレのええ加減ラテン語の部分属格というのは、いかにもエーコらしかったです。
3 そのサルバトーレは、映画ではcataroでしたが、小説ではdolcinianoでしたね。といってもその違いは私もわかりませんが。
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